恋するふたつのアメリカ
「1492年 コロンブスが新大陸を発見した」
私たちがこどもの頃、教科書にはこう書いてあった。
この言葉の選択こそが現代の社会情勢を象徴していると私は思う。
もちろん、ここで私が書きたいのは彼自身が死ぬまで自分はインドに到達したと思い込んでいたことや、アメリゴ・べスプッチだとかレイフ・エリクソンなどと比較することではない。
人間社会において言葉は他人とコミュニケーションをはかる上で大変便利なものだが、使い方を間違えると大きな誤解を招く恐れがある。
しかしながら、実は人間というものはそんなに簡単に言葉を間違えるものでもない。
テレビの報道番組などでよく「そんなつもりで言ったのではない」という言い訳を耳にするが、人間の脳が心に全く思っていない単語を指令する事は滅多にない。つまり多くの場合は誤解でもなんでもなく「そんなつもり」だったのである。
他者を傷つけてしまった場合、言葉遣いよりも自分の誤った認識を詫びるべきである。「誤解を招いたのならお詫びして訂正する」というのは通らない。正しくは「私が間違っていた」とすべきであり、お詫びはできても過去に遡って発言の「訂正」をする事は不可能である。
歴史上、長年にわたってコロンブスが「発見した」と伝えられてきた事実を今更「到達した」に訂正することに対し私は違和感を覚える。子どもたちには「”コロンブスが発見した”とされてきた」ことを正しく伝えるべきであり、過去の間違いを覆い隠すことは許されない。
あなたの家に突然侵入して来た見知らぬ人間が勝手に冷蔵庫を開けて「食べ物を”発見”した!」と言ったらあなたはどう感じるだろうか?アメリカ大陸はヨーロッパ人に”発見”されるまでもなく高度な文明を持って初めからそこに存在していたのである。
これは歴史全般に共通して言えることである。一つの事件について語り継ぐとき、私たちは一部の民族や勢力側から見た恣意的な判断ではなく常に客観的かつ可能な限り正確な資料を提示する義務があり、子ども達はそれを享受する権利がある。
子どもは大人の背中を見て育つ。大人が事実から目を背け、すっとぼけた言い逃れをすれば子ども達はその真似をして成長する。そして将来テレビカメラの前で「誤解を招いたのならお詫びして訂正する」と堂々と言いのける大人が出来上がり、悲しい歴史は繰り返される。
今回の演奏会のテーマ「ふたつのアメリカ」とはもちろん、一つには南北それぞれの大陸を指したものであるが、私は当初からもう一つの視点、すなわち発見したと「思っていた側」と「思われていた側」を常に意識してきた。
芸術とは常に「善」と「悪」の両方が内包されているものである。もしも「善」のみをうたった作品が存在したとしたら、それは「偽善」という「悪」を疑うべきである。つまり人間とは過ちを犯さずに生きていけるほど強くはないのである。
大切なことは自分の中の「悪」を認められるかどうかであり、芸術とはそれら全てを正直に曝け出してはじめて手に入れることが可能となる感動を他者と共有する行為に他ならない。
如何なる動機であったにせよ芸術世界もまた、コロンブス交換によって革命的変革をもたらされることになった。
つまりこれは「悪」を内包した表現の進化であり、世界中の民族はお互いに争い合いつつ複雑な融合・分離を繰り返して発展してきたと言うこともできる。
私たちは過去の出来事を真摯に受け入れた上で、我々の子どもたちが背負う新時代が血の争いによって発展するのではなく、芸術的な「新たな発見」によって進化し「ふたつのアメリカ」はもちろんのこと世界中の民族同士が恋に落ちることを願ってやまない。
本作品は 2017.7.27 京都府立府民ホール”アルティ”に於ける
同タイトルの Musica14.8(ムジカ・カトルセ・コンマ・オチョ)公演にあたって
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