だっこちゃんと宇宙船アポロ(1)
おそらく世界中どこの都市であっても、地下鉄の出口というのはわかりにくいものである。冷静に自分が出たい出口を地図の中から探し出す事はとても時間がかかる、困難な作業である。結局は当てずっぽうにとりあえず地上に出てしまうのだが、実際に外に出て自分の目指す方向が即座にわかる事は滅多に無く、逆に益々迷宮に入り込む場合の方が圧倒的に多い。
中央省庁の立ち並ぶこの地区では建築物に明確な表札が掲げられているので地図と照らし合わせるのは容易な筈だが、いちいちグーグルを起動するのも面倒な話だ。
雲ひとつない青空に銀杏の黄色がとても美しい。僕は自分の方向感覚を頼りに、日が傾いている方角へ向かって歩き出した。最初の交差点まで来ると、角に「動かすな」「脱原発テント」と書かれた横断幕が目に入った。間違いない。ここが経済産業省であれば、目標は信号を渡った先の財務省の向こう側に見えている筈だ。目指す方向にはツインタワーのような同じデザインの二本の高層ビルが建っている。
(あれは何だろう?あんなのが建ったのは、きっと最近のことだよな。たぶん完全にあの建物の死角に入ってるのだろう)
やっとその姿を目で確認できた時、僕は既にそこまであと数十メートルという距離まで接近していた。
霞が関ビル。
日本で初の超高層ビルとして1968年に竣工した。
地上147メートル。現代では地上36階建てくらいで「超」とは呼べない。最近は地方都市の分譲マンションでも同じくらいの高さはある。しかし僕が子供の頃、確かに霞が関ビルは首都・東京のシンボルとして日本の政治の中心・霞ヶ関に聳え立つ唯一の高層建築であった。現在では2007年、隣に竣工した一七五メートルを超える中央合同庁舎7号館にすっぽりと隠れてしまい、霞ヶ関駅側から歩いて来ると正面に廻るまでその姿は全く見えない。
1970年代初頭、小学生だった僕は一度ならずここを訪れた記憶がある。当時は最上階が360度展望台として解放されており、その窓からは東京が一望できた。既に日本一の高層ビルというタイトルは第2代目である浜松町の貿易センターから第3代目の京王プラザホテルにその座を譲った後だったが、まだ新宿に鉄骨の林が姿を見せる前の東京にあって霞ヶ関ビルは、100尺規制のスカイラインをぶち抜いた桁外れの摩天楼というポジションに揺るぎなかった。
その容姿はまさに、大人たちにとっては輝かしい「敗戦からの復興」であり、子どもたちにとっては「平和で豊かな日本」のシンボルであった。
見上げていた首を正面に戻した僕は、何だか少し緊張しながら回転扉を通過した。現在は展望フロアは設置されておらず、もう一度僕の記憶にある景色を見るためには35階で営業しているフレンチ・レストランに入るしかない。ランチタイムと言えども男一人でフレンチというのも何だか落ち着かない。僕はスマホの時計を確認した。
13時57分。
うん、そろそろいいだろう。
14時になればランチタイムが終わる。
コーヒーとケーキでも注文するとしよう。
エレベーターは「1~10階」というように目的階別に幾つかのブースに区切ってあり、それぞれ数機が稼働している。現在ではさして珍しくもない光景だが、昭和40年代に入るまでは当然日本の何処にもこんな物は存在しなかった訳だし、まだ鼻垂れの子どもだった僕は、その光景をただ口をポカンと開けて見ているだけだった。
扉が開き、世間話をしている若い男女、サラリーマン風の中年男性、それに僕を合わせて4人を乗せたエレベーターが急上昇を始める。途端、全身にGがかかり、耳の奥が詰まる。27階、28階であとの3人を降ろしたエレベーターの中は僕一人になった。上層階に到達してからは速度が極端に落ちて、恐ろしいほどの静寂が訪れた。
何だか息苦しい。
意識が遠くなっていくようだ。
何故だろう、もうとっくに35階辺りまで到達している筈なのに、エレベーターはほとんど停止したまま扉を開く気配が全くない。
(故障かな?)
昔よく妄想した、エレベーターのロープが切れて真っ逆さまに落ちる場面を思い描いた。
(きっと、一番下でトランポリンのように跳ね返るんだ)
次々とあり得ない想像を巡らせているうちに、僕は時間の感覚を失った。
***
1987年、大阪
「北方領土を返せ~!」
「ソ連は日本から出て行け~!」
「か・え・せ!、か・え・せ!」
激しいマイクロホンからの罵声は、窓を閉め切っていても室内にまでその威力が達するほどの大音量だった。
「えっ?なんや、あれ」
ビックリして飛び起きたタカシ君が不意を突かれて目を丸くしている。もう既に慣れっこになってしまっている僕は冷静に言った。
「あぁ、よく来るんだよ。すぐそこにソ連領事館があるんだ」
まだ腑に落ちない面持ちのまま、タカシ君は再び布団にくるまって言った。
「やかましいけど、ソ連領事館やったらしゃぁないか。北方領土はそもそも日本やったんやしな」
「ここでわめく事がどれだけ意味のある事なのかわからない。とりあえず、住んでる人間はたまったもんじゃないよ、年中行事だもの」
「オマエは意味が無いって言うんか?」タカシ君は少しこちらに顔を傾けて不服そうに言った。
「北方領土問題がどうでもいいって言ってるんじゃない。それとこれとは別問題さ」
窓の外の街宣車から、今度は「宇宙戦艦ヤマト」の主題歌が流れ始めた。これには思わず二人とも吹き出してしまった。
「まあ、世の中にはいろんな人が居るって事だね」
「そうやなぁ・・・それにしても懐かしいなぁ、ヤマト」まだ少し笑みを残しながらタカシ君が言った。
「ブラスバンドでは定番だったよね」
タカシ君はトランペット専攻、僕と同じ音楽大学に通う同級生だ。
「そう言うたら、オマエもラッパ吹いてたんやったな?」
「中学の時、少しね」
中学のブラスバンドに入った当初、僕は希望したトランペットが既に定員を満たしていたため、人数が不足していたホルンパートに回された。ホルン、と言っても貧乏な中学校にあるのはピストン式の「メロホン」と呼ばれるもので、左指ではなくてトランペットと同じ右指で押さえるB♭管の楽器だった。しかも、新入部員の僕にはその「メロホン」すら無くて、ユーフォニアムと同じように縦に持って吹く「アルト」という楽器が割り当てられた。
元々オーケストラの楽器に憧れてブラスバンドに入った僕は、この得体の知れない妙な楽器に抵抗を覚えた。どうしてもオケで使われる花形楽器、トランペットかトロンボーンを吹きたい。クラブでは妙な習慣があって、「マイ楽器」を持っている者は優先的にそのパートに移れる事になっていた。僕は母に直訴して、長年かけて貯め込んでいたお年玉貯金を一気に1本の新品ヤマハトランペットに交換してもらった。
当時「宇宙戦艦ヤマト」はどの学校でも必ずやる人気ナンバー・ワンのレパートリーであり、これを演奏することはブラスバンド部での、一つのステイタスでもあった。
「でも、南の海に沈むヤマトを改造して宇宙に行くなんて、凄い発想だよなぁ」と、僕がいつもの下らない茶々を入れ始めた。
「一から新造した方が簡単なんちゃうか?って話やな」
僕たちは布団に入ったままケラケラと笑った。
「そう言えば、最初に宇宙に行ったのはソ連だったね」
「スプートニクやな」
「犬を載せて飛ばしたって話もあったなぁ」
「あった、あった。あの犬は結局どうなったんかな」
スプートニク2号は1957年10月に打ち上げられた世界で初めての人工衛星スプートニク1号に続いて、世界で初めて生物を大気圏外に連れ出す事を目的として同年11月に打ち上げられた。
搭乗させられた犬、「ライカ」は、打ち上げ直後は食事をとった記録があるものの、ロケットの故障により室内が高温になったために1~2日ほどで亡くなったと考えられている。その後衛星はライカの屍を載せたまま軌道を周り続け、162日後に大気圏に再突入して焼失した、というシュールな話である。
「ソ連って恐ろしい国やな~」
犬の話から急にテンションが下がったタカシ君がしんみりと言った。
「アメリカだって恐ろしい国さ」
「けど、とりあえず自由があるやん。アメリカっちゅうか、少なくとも西側の国は。東側の国ではみんなが苦しい思いをしてんのになぁ」
「本当に僕たちは自由なのかな。東の人たちは本当に皆が不幸なのかな。そもそも自由って何だろう?」
「そら東に生まれてたら不幸やで!日本は言論の自由があるし、お金さえあれば旅行だって好きな所に行けるやん」
「お金があれば自由が得られるか・・・どうなんだろうね」
「日本はアメリカに次ぐ豊かな国やんか。欲しいものはだいたい何でも手に入るし。東側の惨状を聞く限り、少なくとも”こっち側”で良かった、って思う。平和で豊かな国に生まれて幸せな事や。感謝せな」
「普段僕たちが ”欲しいもの” だと思ってる物は本当に全てが必要な物だろうか?食べるのに困らないのは幸せな事だけれど、携帯電話やパソコンは皆が使っていなければ必要無いかもしれないし、毎年変わる流行の服や靴だってどうだろう?」
「じゃ、オマエは食べんかったらええし、買わんかったらええやん」
自分から掘ったものの話が思ったように噛み合わず、だんだん面倒になってきた。
僕自身、何が疑問なのか、何か不満なのか、よくわからなかった。ただはっきり言えるのは、「こちら側で良かった」という一般論的な会話の解決方法に違和感を覚えている、ということだけだった。
「コーヒー飲む?」僕は結局、この話題から逃げることにした。
「ああ、入れてくれたら飲むで」
僕はキッチンに立ち、マイルドセブンを一本取り出して火を付けてから、ヤカンを火にかけた。
「なんかオマエ、最近よう吸うなあ。増えたんちゃうか?タバコ」
煙に嫌悪感を示しながら、タカシ君は部屋にある僕のCDラックの中を物色し出した。
「砂糖もミルクも要らんな?」
都合の悪い話は聞こえないふりをする。
「ブラックでええよ~。あんまり増えとらんなぁ、CD」
「高いもん、CD」
「あれ?ムラヴィンスキーのショスタコ5番のCD、オマエ持ってたっけ?」
「買った」
「これ、ええよなぁ!前に先輩の家で聴いたわ」
「『ショスタコーヴィチの証言』 によれば、ムラヴィンスキーは何も解っていないそうだよ」
「あの本は偽物らしいで」
タカシ君は不意に近くまで寄って来て言った。
身長差が優に15センチはあるので見下ろされると少し威圧的だ。
「偽物かどうか、そんな事は誰にもわからないよ」
「いや、多分ほとんど捏造やな。作者が西側でボロ儲けする為に猿芝居を打ったんちゃうか?」
「詳しそうだね。どこでそんな情報を得た?」
「あはは!ラッパの先輩がショスタコ好きやからな。めっちゃ詳しいねん」
ちょうど大学のオーケストラの授業では、その年の定期演奏会のメイン・プログラムであるショスタコーヴィチの交響曲第5番を練習していた。
学生の人数の関係から弦楽器は全学年が定期演奏会に出演できたが、管楽器は3、4回生しかオケに乗れなかった。僕たちは当時2回生。したがって、タカシ君はメンバーには入っていない。
「あのフィナーレは革命の勝利や。輝かしいロシア民族の勝利を讃えたファンファーレやろ?」
「いや、僕にはそうは聞こえない。なんか、苦しみが残る」
「いや、オレが言いたいんは一般的な解説の話」
「ああ、そういう風に書いてあるよね」
「どうなんやろなぁ」
「違うさ、きっと」
ドリップで落としたコーヒーを一口啜って、僕は言った。根拠は何も無かった。ただ、そう思っただけ。
大学に入ってから生まれて初めて触れたショスタコーヴィチの交響曲は、僕に大きな感動を与えた。ショスタコーヴィチの音楽はただ「美しい」だけでも、ただ「カッコ良い」だけでもなく、醜く、恐ろしく、時には耳がよじれる程の「苦しみ」であり、「叫び」である。暴力的な程に力強く、今にも壊れてしまいそうな位に繊細で、そのダイナミックレンジは今までに経験した音楽とは桁違いであった。リズムは心臓の鼓動のように生命力に溢れており、ハーモニーは極限にまで美しく、その色彩は暗黒から透明まで常に無限のグラデーションを描いている。
更に、純粋に音楽としてだけでも非の打ち所のない完成度であるだけでなく、この作曲家を取り囲むあらゆるミステリーは更に僕たちを惹きつけた。
タカシ君の言う通り、僕たちは子どもの頃から「ソ連は怖い国だ」という印象を持ち続けていた。僕たちは第二次世界大戦末期に満州で起こった一連の出来事や、シベリア抑留の惨事を親たちから直接聞いて育った世代だ。「社会主義」「共産主義」とは、何やら規律で固められ、常に監視された不自由で住みにくい社会、というイメージがあった。東側と西側社会は情報が遮断されていて真実はよくわからなかったし、それは我々が子供の頃から既にそういう状況であった。しかし何も情報がないのに、子どもの頭の中にイメージが勝手に出来上がるというのも可笑しな話だ。そこには当然、子どもに対する大人の教育も関係していたであろう。
窓の外からソ連領事館が流す音声が聞こえて来る。
「北方領土は◯◯◯・・・」
遠慮して音量を落としているせいもあるが、声域が低い上に喋る口調が淡々としていて、肝心な内容は全く聞き取れないが、ソ連の正当性を主張している事だけは推測できた。
やがてそれを掻き消すように、再び大音量のコールが始まった。
「北方領土を返せ~!」
「ソ連は日本から出て行け~!」
「か・え・せ!、か・え・せ!」