だっこちゃんと宇宙船アポロ(4)


 ジョン・F・ケネディ大統領が神のもとに来て尋ねた。

「神よ、お教えください。我が国の民が幸せになるのに何年かかるでしょうか?」

「50年だ」と神は答えた。

ケネディは涙を流し去っていった。

シャルル・ド・ゴールが神のもとに来て尋ねた。

「神よ、お教えください。我が国の民が幸せになるのに何年かかるでしょうか?」

「100年だ」と神は答えた。

ド・ゴールは涙を流し去っていった。

ニキータ・フルシチョフが神のもとに来て尋ねた。

「神よ、お教えください。我が国の民が幸せになるのに何年かかるでしょうか?」

神は涙を流し去っていった。

 

 1960年、日本でビニール人形が大ブレイクしていた頃、ソ連ではこんなジョークが流行っていた。


 フルシチョフは国内の農場を視察して回ったが、その実情は惨憺たるもので結局のところ腐れ切った官僚たちのコメディを鑑賞するだけに終わった。統計年鑑には、ソ連はアメリカの国民総生産の60%を達成したと書いているが、それはどう見ても誇張であり、せいぜい25%ほどであったと考えられている。

フルシチョフはスターリン批判によって西側との一時的な雪解けをもたらし、ソ連の国際的立場を優位に運ぼうとしていたが、国内のスターリン主義残存勢力や中国の毛沢東は彼の討伐のためにナイフを研いでいた。

 そんな時代にあってベルリン問題は、東ドイツ首相のウルブリヒトや1961年に史上最年少で就任した合衆国大統領ジョン・F・ケネディらと如何に巧みに渡り合うかで、社会主義国家の命運を左右する重要なものであり、フルシチョフ自身の首がかかった国際政治の最前線であった。

第二次世界大戦後の分割統治はベルリンに新たな苦難を課した。東ベルリン市民はソ連軍の占領に辟易していた。仕事はない。物も無い。エネルギーは不足している。治安も悪く10数万人の東ベルリン女性がソ連軍兵士によって性暴力の被害に遭ったと記した統計も存在する。ドイツ民主共和国が成立した1949から1961年までの間、実に6人に1人がこの国を去っていった。東ドイツの低迷に対する西ドイツの成長は強力で、1961年に至る10年間の一人当たり国民所得の平均伸び率は6.5%、当時世界第3位の輸出国であった。

 1961年8月13日、東ドイツにより一夜にして東西ベルリンの境界に有刺鉄線が張り巡らされた。その後、石によって固められた ”壁” はW・チャーチルの「鉄のカーテン」を具現化した東西冷戦の象徴として、二分割された社会の境界線として、市民生活の前に立ちはだかった。

 この壁は東から西への難民流出を阻止するのが目的であり、これを越えようとする者は容赦なく射殺された。


 戦争が引いた一本の線は家族を分断し、貧富の格差を生んだ。1989年の壁崩壊までに、これを越えようとして射殺され、亡くなった人は公式発表されているだけで136人、その中には壁の近くで遊んでいた子ども2人も含まれている。


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 ソロモン・ヴォルコフが初めてショスタコーヴィチに会ったのは1960年、弦楽四重奏曲第8番を絶賛した彼の批評がレニングラードの新聞に載った時の事だ。(ショスタコーヴィチは自分の批評記事には全て目を通していた)

弱冠16歳だったヴォルコフは、この時の事を「天にも昇る心境だった」と回想している。

ヴォルコフは正真正銘、ショスタコーヴィチの崇拝者だった。当時まだショスタコーヴィチの音楽は公には禁止されていたが、彼はあらゆる手を尽くして崇拝してやまない作曲家の音楽を研究した。


 弦楽四重奏曲第8番はショスタコーヴィチ曰く「僕自身の人生に捧げた作品」で、彼の自伝的作品である。自身のイニシャルである音型、D-Es-C-Hが主テーマとして用いられているほか、自身の作品すなわち、交響曲第1番、交響曲第8番、ピアノ三重奏曲第2番、チェロ協奏曲第1番、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」、革命歌「重い枷に捉えられ」のモティーフをはじめ、ワーグナーの「神々の黄昏」、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」など他人の作品からも引用されている。

この作品は本人による献辞「戦争とファシズムの犠牲者に捧げる」が公認の言い伝えとして定着している。実際に1960年9月、ロンドンで会見した際にショスタコーヴィチがこの曲についてそう語った記録は残っているが、それが作曲家の本心を伝えているものなのかどうかは少々疑問が残る。

ショスタコーヴィチの長男で指揮者のマクシムは「『ファシズム』を『全体主義』の同義語と考えるなら矛盾は無くなる」としているが、長女のガリーナはこれに反対しており、「これは僕自身の人生に捧げた作品だ」とショスタコーヴィチ本人が語った、と主張している。


 ベルリン問題をはじめ内外政策で尻に火がついていたフルシチョフは共産党のイメージ戦略のために知識人擁立を図った。ソ連邦社会主義共和国作曲家同盟設立大会が1960年4月9日に行われ、ショスタコーヴィチはそのトップとなる第一書記に選ばれた。名実共にソ連の、共産圏の楽壇の公式トップの座となったショスタコーヴィチに対してフルシチョフは共産党員となる事を要求し、執拗な入党への脅迫が繰り返された。

 既に社会主義国ソ連を代表する芸術家・作曲家として世界に名を轟かせていたショスタコーヴィチであったが、表向きはプロレタリアートであり、西側社会からは従順な公僕というレッテルを貼られていた。

周囲から見れば今さら共産党員であろうが無かろうが、どれほどの違いがあるのか、という印象もある。ところが、体制の規範として生きながらも、彼の心の内はそれほど単純なものではなかった。事実、彼は友人に「共産主義なんて、僕は受け付けない」と語っているし、実際には常にシニカルで多面的であった。「真実は作品にある」という言葉で全てを回避するには、自己矛盾の呵責に耐えうる範疇を超えており、それでいて運命に逆らう強固な意志を貫く勇気に欠けている自分を認める事は、自分という存在そのものが危ぶまれる可能性を帯びていたのだった。


 1960年7月、ショスタコーヴィチは第二次世界大戦時のドレスデンの荒廃ぶりを記録した映画「五日五夜」の製作に立ち会うために東ドイツに赴いた。しかしこれは表向きの理由で、実際には共産党への入党勧誘から逃れる口実であったと考えられている。確かに東ドイツで見る廃墟となった都市の風景はショスタコーヴィチの心に大きな影響を与えたに違いない。しかし、彼は映画音楽を製作する事は出来なかった。代わりに作曲されたのが本人曰く「イデオロギー的に欠陥のある」弦楽四重奏曲第8番で、この曲を書くにあたって「ビールを半ダースほど飲んだあとの尿と同じくらいの量の涙を流した」と友人に語った。彼はドレスデンからの帰途についた時、ある計画を実行に移す決意を固めた。「僕が死んでも誰も僕の思い出に捧げる曲は書いてくれないだろう、との思いで作曲した」という自身の言葉は、この作品が作曲家の遺言として完成された事を著している。


***


 もし読者の皆様の中に現在自殺を計画中の方がいらっしゃったら、是非とも “忘れ物” の無きように、と忠告させて頂く。

自殺の準備段階とは、火山の噴火口に様子を見に行くような感覚である。

下はどんな具合だろうか?

距離はどれほどだろうか?

熱いだろうか?いや、それは熱いに決まっているが、自分の身体が溶けるまでにどの程度の時間がかかるだろうか?と、いろいろ計算をするわけである。多くの場合はそうして計算をしているうちに、自分にはとても遂行出来ないと気づき、引き返していくものだ。

悲しいのは、そうこうしているうちに誤って噴火口に転落する者が後を絶たない事だ。

彼らは転落した瞬間に思い出す。

「しまった、忘れ物があった・・・」

しかし一度死神に腕を掴まれたら、もう帰ることはできない。

どれだけ慈悲を請うても容赦はない。

正確に言うなら、慈悲を請う暇などない。

奴が来た時にはもう遅い、いくら後悔したところで後戻りさせてはくれないのだ。

死神は一瞬で僕たちの腕を掴み、暗黒へ引きずり込んで行く。

声を出す暇も無い。 


 人の死には様々なケースがある。

建物と同じく、経年劣化は最も抗しがたい原因であり、病気、不慮の事故が生死を左右する場合もある。

さらに戦争、殺人、自殺など、故意に命を絶たれる場合もある。

どのようなケースに於いても共通して言えることは、一度死んだ者は二度と生き返らない、という点である。

 死ねば我々は消滅する。

 いや、物理的には消滅するのではない。

 灰になったり、腐った肉になったりするわけだが、もっと正確な解説を試みるならば、我々人間は常に死に向かう約60兆個の細胞の集合体であり、「死」とは、その集合体の指令体系が破壊される現象である。

 死んだあとも物理的に「我々であったもの」は存在するが、それはもう組織としてはバラバラであり、化学変化を起こしながら別々の指令体系に就いていくのだ。

 ただの水になる者、

 バクテリアの餌になる者、

 燃えて気体となる者。

 それらは、かつて「自分」を構成していた者たちであったにせよ、今はもう全く別の組織に行ってしまった「別人」である。

 一度崩れた指令体系が再構築されることはあり得ない。

 生命は常に同じ方向にしか流れて行かない。

 逆方向はあり得ないのである。


 どのように捉えようと「死は」必ず万人に平等に訪れる。

 それが我々が「生きている」という証なのである。


***


 ショスタコーヴィチの身体には大量のウォッカが沁み渡り、平衡感覚は失なわれていた。

最後の紙巻き煙草を吸い終えると、彼はベッドに深く沈み込んだ。

先ほどの薬が胃で吸収され、全身に回るまでには一体どれほどの時間を要するのだろうか?


(月光ソナタか・・・懐かしいな、若い頃はよく弾いた)

ふと、先ほどの帰り道でどこかの家の窓から聞こえてきたピアノの音を思い出した。

(昔、ユーディナに言われたな、「ハンマークラヴィーアを弾きなさい」って)

ひと頃、ショスタコーヴィチは「月光」と「熱情」ばかり弾いていた。

(スターリンの時代なら良かった。銃殺ならば自分の意思でなく、ひと思いに逝かせてもらえたのに)

スターリンと違い、フルシチョフは命を取りに来ない代わりに精神を奪いに来た。

これはショスタコーヴィチにとって生きているよりも辛い事であった。

死を選ぶ方が「楽」であるとは、一体どれ程の苦しみであろう?

自分の生命を絶つスイッチを自分で押せる人間は既に狂人である。

しかし、その原因をもし「思想を貫く」ことに求めるのならば、果たしてそれは自己へのどのような功罪であろう。


 死ねば忘れられるだけである

いったい誰が私の事を思い出すだろう?

誰もがみな、生きている間は当たり前に暮らしている。

死んだ途端に、まるで初めから存在しなかったように忘れ去られるのだ。

私が生きていても、死んでいても、ラジオからは毎日ニュースが流れる。

建物が建てられ、その中で人は忙しく仕事をし、食事をして・・・

何も変わらない毎日は続くのだ。

私が生きた意味はどこに存在したであろう・・・

ショスタコーヴィチの意識は海溝の奥まで深く深く沈んでいった。


「ミーチャ!ミーチャ!」

その時、遠くから亡くなった母の声が聞こえて来た。父も一緒だ。

次に彼の脳裏に黒海の美しい景色が広がった。

そこで激しい恋に落ちたタチヤーナ・グリヴェンコ。

ショスタコーヴィチの頬に一筋の涙が流れた。

そして彼の人生に深く関わった人たち、

54年に亡くなった妻ニーナ、二人目の妻マルガリータ、娘のガリーナ、息子のマクシム、スターリンによって粛清された多くの同胞、メイエルホリド、トゥハチェフスキー・・・そして、何の評価もされる事なく戦場に散っていった弟子のフレイシュマン・・・‼︎

不意にショスタコーヴィチは重要な「忘れ物」を思い出した。

そうだ、「ロスチャイルドのヴァイオリン」だ。

わたしにはまだ仕事が残っている。

そしてわたしは、わたしの記憶に残っているものを洗いざらい記録に残す必要があったのだ。

どうしてもそれはやらなければならない!


 ショスタコーヴィチは必死にもがきながら手を伸ばし、何かを掴もうとした。次元を超越したエネルギーが無作為にその標的を抽出した。それは時速300kmで走る超高速鉄道を素手で掴み、止めてしまう程のエネルギーだった。そして、彼は時空を超えて何かを掌握し、意識をそこへ集中していった。

ショスタコーヴィチは死神がその腕を掴む直前、間一髪で噴火口から離れる事に成功した。


目が醒めた。

朝が来たようだ。

何も変わっていない。

いつもと同じ朝だ。


 就寝前とは表情が打って変わったショスタコーヴィチは、急速に我に帰った。

(時間はない。急がなくては)

ショスタコーヴィチは電話のダイヤルを回した。

「ショスタコーヴィチです。至急お願いしたい事があります。

モスクワ放送の、ある人物と極秘に連絡をとって頂きたいのです」


 ショスタコーヴィチは9月14日に正式に共産党員候補者となった。

それは彼にとっては僕たちの想像では計り知れない絶望のどん底を意味するものであるが、同時に彼が残りの仕事を成し得るための唯一の手段でもあった。


***


「福山へ引っ越しすることになったんだ」

「・・・そうか」

マサオ君は何か思索を巡らせている。

1975年の事である。父が松江に転勤になった事を機に、僕と姉は母に連れられて祖母が暮らす福山の実家へ戻る事になった。父の仕事柄この先もいつ、どこへ飛ばされるかわからない状況であったことから、祖母と子供達の安定した生活を第一に考えた両親の決断であった。

“戻る” と言っても、僕は関東で生まれ育ち、福山は夏休みと正月にだけ帰省する「田舎の家」である。

何故、住み慣れた街を離れ、親しい友人たちと別れなければならないのか?幼心に悲しみを通り越し、苛立ちを覚えた。


 マサオ君は最後の思い出として一緒に横須賀に行くことを提案した。

「三笠を見に行こう」

イギリスに発注して建造された「三笠」は1902年に旧日本海軍籍となった我が国初の近代戦艦である。

日露戦争中は東郷平八郎司令官の率いる連合艦隊旗艦として活躍、ショスタコーヴィチが生まれる前年である1905年5月には日本海海戦でロシアのバルチック艦隊と交戦した。

アリが人間に噛み付いたような戦争であったにもかかわらず、ロシア軍は膨大な借金の調達に成功した日本軍に苦戦した。

三笠はワシントン条約締結後廃艦が決まり、1925年以降は記念館として保存されたが、第二次世界大戦後、連合国軍に摂取されて米軍に「キャバレー・トーゴー」として利用され、その後は設備の盗難が相次いだりですっかり荒廃していた。

そして僕たちが生まれる少し前に復元保存運動が盛り上がり、1961年に復元整備された三笠は再び記念館として復活した。

甲板や主砲塔には敵からの砲撃で破損した箇所が実際に斜線で記されており、二人の小学生は半世紀以上前の大海戦に想像を巡らせた。


「いでボンは将来何になるんだい?」

「音楽家・・・あはは、なれるかどうかわからないけど」

「いや、いでボンらしいよ」

「マサオ君は?」

「僕は裁判官かな」

「うん、マサオ君らしいね」

僕は確かに音楽が好きだった。

でもその時点で何か楽器を習っているわけでもなく、思いはただの夢物語であり、まったく実現の可能性は無かった。

僕はどちらかというと元来のんびりした性格で自分から行動を起こすタイプではなかった。

マサオ君のように行動力のある人間と一緒に居ると自分で物事を決める前に彼が決めた事に従い、ついていくのが癖になっていた。

しかし、これからは彼と一緒ではない。

僕はこの日、心に決めた。

実際に音楽家になれるかどうかはわからない。

でも転校したら、人についていくのではなく自分の意見を持ち、自ら先頭に立って歩ける人間になれるように努力しよう。

 

この時の気持ちが、僕の性格に少し棘を加え、同時にとても遠かった音楽の世界へゆっくりと導いてくれる結果となったのだ。

 

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