だっこちゃんと宇宙船アポロ(6)


 1983年、東京


「いま開店前で忙しいんだよ!さあ、帰った、帰った!」

小料理屋の主人は面倒臭そうで、話を聞く気は全くない。

仕方なく、僕は近くに停めてあるワンボックス車に戻り、課長に報告した。

「ダメっす。カラオケには興味ないっスね~、あの店は」

「馬鹿野郎!興味ないなら、持たせるのがお前の仕事だろうが!

もう一回行って来い。ダメなら他の店に当たれ。見つかるまで帰って来るな」課長の罵声が飛ぶ。

僕は乗ったばかりの車から降りてまた繁華街をぶらつき、いい感じの飲み屋を見つけて飛び込む。

「ちわ~っす」

カラ元気だが、目一杯の愛嬌で暖簾をくぐると、

中年で愛想の良い主人がカウンターの中から大きな声をあげた。

「らっしゃ~い!」

僕はすかさず店内を見回して話を切り出す。

「いやぁ~ご主人、ここにはカラオケは置いてないんっすね~?」

「ああ、うちは置いてねえよ。歌いたいんなら他所に行きな」

主人は少しがっかりしたように下を向いて仕事を続けた。

魚か何かを捌いているようだ。

「いやいや、実はちょいといい話なんですがね・・・」

めげずに続けると、主人はギロッと鋭い目でこっちを睨んだ。

「何だ、お前さんセールスかい?」

「あ~!ご主人、ちょっと待って下さいよ。ちょいと、お話だけ、お話だけでも!」

「はは~ん、わかった。あんた実は今、暇なんだろ?」

「いや、暇っていうか忙しいていうか・・・」

普段なら、ここいらで追い出されるのだが、この主人はどうも僕をお客として引き留めたいらしい。

「わかってるさ、忙しいけど暇なんだろ?まあビールでも飲んで行きなよ、一杯だけ奢ってやるからよ」

「いや結構です、また来ます」

(ビールなんか飲んで帰ったりしたら課長にどれだけ怒られるかわかったもんじゃない)

僕は慌てて店を出た。


 バイト雑誌で「音楽関係のお仕事です」という広告を見て、初台駅近くのオフィスに面接へ行ったのは一週間ほど前の事だ。古ぼけた怪しい雑居ビルの一室に「◯◯音響」という表札があった。

事務所の中へ入ると、中央に鎮座している一目で堅気でないとわかる風貌の中年男性を中心に、数人の胡散臭い取り巻き男性が僕を出迎えてくれた。

 「社長」「部長」「課長」「係長」それに平社員が一人と、僕より一足先に入社した同世代のアルバイト、それに僕を加えた7名。それがこの会社の全社員であった。

仕事は「業務用カラオケ機器販売」と言えばまともに聞こえるかも知れないが、その実態は現物を車に積んで夜の繁華街に飛び込みで売り歩く、いわゆる「押し売り」であった。

 車は2台。三人一組で二手に分かれ、それぞれ別々に行動する。新小岩、錦糸町、巣鴨、池袋などの下町を中心に、個人経営の店舗に僕たちアルバイトが片っ端から飛び込む。少しでも売れそうな匂いがする店を見つけたら車に戻って上司に報告。すると上司はすぐさまカラオケ機を持って無理矢理店内に押し入り、執拗な売り込みを始めるのである。これがまた、一体どんな世界を渡り歩いて来た人たちなのか知らないが、巧みでしつこい口上で数十万円もする機器を意外にあっさり売ってしまうのだから驚いてしまう。

 当時、カラオケはまだ現在のようなオンライン・システムではなく、流行に合わせて新曲のソフト(当時はカセットテープが主流)を購入し続ける必要があり、カラオケ設備を導入するためにはそれなりの初期投資と継続的な出費を覚悟せねばならなかった。。それでも時代の波であるカラオケ・ブームに便乗して商売の起死回生を図ろうとするカモを目当てに、「常に最新の流行曲をキープし、万全のアフターケア」というキャッチフレーズを携えて、僕たちは夜な夜な東京じゅうの繁華街をしらみつぶしに売り歩いた。

 バイト雑誌には「シフト制、勤務時間応相談」などといい加減な事が書いてあったが、とんでもない。

当然の如く毎夜出勤、一度出勤すれば帰りは真夜中で、売り上げが無ければなかなか帰らせてもらえない。「こんちわ~!◯◯◯◯音響で~す。あ、ママさん?カラオケやらな~い?」

こんな事を数週間も続けているうちに、僕はすっかり気が滅入ってしまった。

(一体、僕は何がしたいのだろう?)


 アキロヴィチとバンド活動を謳歌した高校時代、あまりにも盛り上がった僕たちは、学校なんか辞めて東京でプロを目指して活動を始めようと考えはじめ、一時は家出同然で東京の友人宅に転がり込んでいた。結局のところアキロヴィチはそのまま実行に移したが、僕はすったもんだの挙句、高校の卒業を待ってから当時仕事で東京にいた父のアパートに同居することになった。

(僕は本当に音楽がやりたかったのだろうか?)

そんな疑問が湧いてきたのは、アメリカ留学の予備校的コースを選んで入学した音楽専門学校の雰囲気にどうも違和感を覚え、カラオケの押し売りを始めたちょうどその頃だった。

 学校の授業で唯一僕の印象に残っているのは「ケーデンスとその崩壊について」の講義でドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」のアナリーゼをした時の事で、楽器のレッスンよりも遥かに興奮したのを覚えている。専攻楽器にギターを選んだというのも、とくに他に弾ける楽器がなかったというだけで、レッスンにはあまり感動を覚えなかった。本当にアメリカに行きたいのかどうかも、よくわからなくなっていた。あるのは漠然と(音楽制作の現場に携わりたい)という思いだけで、呆れたことに進みたいジャンルすら自分ではっきりとわからない始末であった。


 いや、音楽がやりたいなんてのはきっとこじつけだ。

ひょっとすると僕は東京が恋しかっただけなのかも知れない。

マサオ君と別れてから今まで、ずっとここへ帰って来る事だけを考えてきた。どこへ行ってもネオンが眩しい賑やかな駅前がある。そして、隣の駅にもまた繁華街。次の駅も、その次の駅も賑わい、永遠に続くと思われる大都会の風景。田舎に住んでいる頃、近くに人間が誰も居ない、近くに建物が何も無い、ただ広がっている田園風景が嫌いだった。

一点の明かりも存在しない暗闇。

それは僕にとってあまりにも寂しく、恐ろしかった。

全く知らない人でもいい、冷たい人間関係でもいい、酒と生ゴミにまみれた汚い路地でもいい、何処まで行っても人が住んでいて、何処まで行ってもビルが建っていて、何処まで行っても雑踏の匂いがする場所に埋もれていたい。木陰ではなく、コンクリートの中で休みたい、そう思っていた。


 しかし、それが実際に現実のものになると、僕の行動はネガティブに変化していた。

都会とは、そういった依存症の人間を集めて脳中枢を破壊するドラッグのような場所なのかもしれない。

一度都会の暮らしに馴れた者は田舎での生活が難しくなる。自分からは何もしなくても、都会はオートマティックに僕たちを運んでくれる。何も考えなくても時間は流れ、お金を費やし、エネルギーを費やし、心を奪われる。下手をすれば自分の意思で歩く事すら必要無でなくなってしまう。

そう、自分らしさなど捨ててしまえば全てが楽で、とても快適な場所なのだ。

 自分の意思を貫き通す事は、非常に難しい作業である。

まずもって「自分の意思」とはなんぞや、というところから考え直す必要がある。

何故なら、自分で決めたつもりでも実は周囲に流されている事の方が圧倒的に多いからである。

自分の思い通りに動けないもどかしさを周囲のせいにするのは最も安直で手っ取り早い問題の解決方法である。しかし、どれだけ社会を非難しようが、自分もその社会を構成する細胞の一つであることに変わりはない。喪失した理性は簡単に奪回できるものではない。

そう、僕自身が既に重度の都会依存症になってしまっていたのだ。


 深夜テレビがオールナイトでくだらない放送を始めた。

僕は人に会うことも、家を出ることも億劫になり、アキロヴィチの部屋か、自分の部屋でだらだらと過ごすことを好むようになった。

そしていつしか、子どもの頃に横須賀で心に決めた「自分からすすんで」という気持ちなどすっかり消え失せていた。


「人は生きるためにこの都会へ集まってくるらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ」


(R・M・リルケ 「マルテの手記」 大山定一訳 新潮文庫)


***


 1969年に発表されたショスタコーヴィチの14番目となる交響曲ト短調「死者の歌」は、グスタフ・マーラーの「大地の歌」や、ベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」を踏襲するかのような作風だが、複数の作者による11篇の詩が作曲家の感覚によって再構成され、全体を通して一つのストーリーにまとめられている点が非常に特徴的である。

 西洋音楽の伝統的なジャンル分けからすれば「オラトリオ」に分類されると思われる重要なこの作品を、ショスタコーヴィチは敢えて自身の創作活動の軸であり続けた「交響曲」に分類した。

音楽的な特徴としてはトーンクラスター、12音技法など現代音楽の語法も含めた極めて多彩な表現方法を用いていることなどが挙げられるが、一切の管楽器を排したユニークな楽器編成で書かれていることも特筆すべきである。しかし、何と言っても「死者の歌」の存在意義はこの楽曲が持つ死生観であり、これこそショスタコーヴィチ芸術の根幹を成すもので、高度な作曲技法や斬新な管弦楽法はあくまでもそれを具現化するための道具の一つにすぎないのだ。


「音楽は言葉を超える。私はそう信じたい。しかし、音楽の理解を高めてもらうために、言葉はたいへん有効である」

 作曲者の狙いとはまるで見当違いな解釈によって作品を凌辱され続けたショスタコーヴィチが、晩年になって誰にでも「言葉」によって本質を誤解することなく受け止められる作品を「交響曲」として書き上げたのは、彼の創作に対する深い執念からであった。

 事実、この作品がその尋常ならぬエネルギーによって人間の精神に直接的に訴える事を象徴するかのような出来事が、初演に先立つ公開リハーサルに於いて起こった。ソ連作曲家同盟のモスクワ党組織の指導者であったパーヴェル・アポストロフは、見当違いの愚行によってショスタコーヴィチを侮辱し続けた者の一人であった。公開リハーサルに招待されたアポストロフは「死者の歌」を鑑賞中、死神に捕らえられ、その後息を引き取ったのだ。

 当初、演奏中であるにも拘わらず突如騒々しく会場を退出していったアポストロフの蛮行を、列席者たちは彼特有の嫌がらせだと思っていた。しかし演奏が終わったあと、会場の外で心臓発作によって倒れたアポストロフが、駆けつけた医師に介抱されている姿を見たとき、皆は彼のはかない運命を悟った。

 この件についてショスタコーヴィチは「アポストロフはどんな手を使っても打ちのめす事のできない ”でくの坊” だと思っていましたが、アポリネール(ポーランドの詩人・『死者の歌』第3~8楽章では彼の詩が採用されている)の方が強かったということですね。私はいくら愚か者と言えども、この男を殺すつもりまではありませんでしたから」と、このテキストの威力について語っている。


「死者の歌」第11楽章「結び」 (R・M・リルケ詩)


死は全能なり

幸いなる時にも

そは我らを見守る

人生最高の瞬間にも 我らの裡でもがき

我らを待ち受け 切望し

そして我らの中で涙落とす


「邦訳:一柳富美子 TOKYO FM ールドルフ・バルシャイ指揮モスクワ室内管弦楽団1975年来日公演 『ショスタコーヴィチ交響曲第14番』日本初演盤解説より引用」


 リルケの詩による終楽章は実に不可解である。

死が “全能” である、と言っておきながら、死が “我らの中” で涙するのである。

そして音楽は何の感激も救いも無いまま、突然遮断されるように終結する。

これは、この地球上の全ての宗教に対するショスタコーヴィチの不屈な挑戦とも見てとれる。


 もうかなり前になるが、レオナール藤田の個展を訪れた時の事である。

「乳白色の肌」と賞賛される数々の美しい裸婦の絵画の中に突如、人類への冒瀆とも思える圧倒的に信じ難い戦争画が目前に現れた。

「アッツ島の玉砕」である。

“目を覆いたくなる” という表現があるが、このような場面に遭遇した時、僕は逆に瞳孔が開き、瞬きすらできないほど作品に吸い込まれてしまう。

“釘付け” という表現が一番近い。不謹慎だと思われるかもしれないが、作品が凄惨であればあるほど、僕の魂はそこに引き寄せられてしまうのである。

果たして、これは一体何と説明すれば良い現象なのだろうか?

しかし、誤解を恐れずに言うならば、人間とはそういった恐ろしい一面(強いて言葉にするならば『闇』)を持った生き物であると僕は考えている。

そして、「死者の歌」を聴いた時に受けた印象は、まさにそういう類のものであった。


***


 通っていた専門学校でベースを弾いていた友人が、「購入したものの挫折して持て余している」という理由で僕にコントラバスを買い取ってくれないか?と持ちかけてきたのは1985年の事だった。

ほんの興味から二束三文で手に入れたコントラバス、それは10年ぶりの再会であった。

物事が起こる時とは、何かと重なるものだ。ほぼ同時に父が仕事で大阪に転居する事になり、「本当に勉強する気があるのなら一緒に大阪へ行かないか?大阪の大学へなら行かせてやってもいい」と言ってくれた。

僕はしばらく考えた。

 大好きな東京に居続ける事は、ある意味で心地よいに違いない。でも、多分このまま人ごみに押し流されて自分を見失うだけで終わるだろう。アキロヴィチという、行動力のある人間と一緒に居ることで足元はますます安全になり、そして僕の脳神経は侵され続けるに違いない。

マサオ君の時と同じだ。

本当に音楽をやりたいのなら、東京でなくてもできるはずだ。

僕は自分への試金石として、大阪へ行くことを決めた。

今度こそ、本当に音楽の世界へ向かって。

「頑張れよ!オマエはきっと出来るよ」

アキロヴィチはそう言って僕を送り出してくれた。


***


 何の因果か在日ソ連総領事館のすぐ近くで過ごした僕の4年間の大学生活は、世に言うバブル期にすっぽりとはまっていた。高度経済成長の行き着いた先は、人々が醜態を晒したバブルの時代だった。

経済学者に言わせると正確には違うらしいが、僕たちの世代が生きてきた実感として、これらは全く同じライン上で連続している。

身の回りには物や食料が溢れ出し、吸収する限界を超えてもなお膨らみ続けた人間の欲望は、身体じゅうが裂けて膿が弾けるように飛び出し、都会では富裕層の糞と嘔吐物の洪水に溺れた社会的弱者が束になって排水口に詰まっていた。


 1989年、かつて一夜で築かれたベルリンの壁は、一夜のうちに崩壊、「冷戦」という名の、西側から見た「長い平和」は終結した。そしてベルリン市民が自由を手に入れるのと時を同じくして、日本のバブル経済は崩壊、日本人は非現実的な夢から強制的に目覚めさせられた。

そして、1991年には遂にレーニンの時代から74年続いたソヴィエト連邦が崩壊した。

そんなさなかの1990年、僕は子どもの頃からの念願であったオーケストラに入団した。そして僕のプロ・デビュー曲は、オーケストラ奏者になるための必須レパートリーである、ショスタコーヴィチの最も有名な交響曲であった


***


 2006年、大阪


「読んだか?」

大阪のオーケストラでプロ奏者となったタカシ君が、久しぶりに会ったというのに、真っ先に訊ねてきたのはそれである。

「ああ、読んだよ」

ショスタコーヴィチ生誕100年の記念すべきこの年、世界中でこの作曲家の優れた作品が取り上げられた。この天才作曲家の作品は理解ある人々の努力によって少しづつ日の目を見るようになっていたが、一方で例の『証言』は数年前に完膚無きまでに叩き潰されてしまっていた。


 2000年、アメリカの音楽研究学者、ローレル・E・ファーイが「ショスタコーヴィチ・ある生涯」という本を発表した。この本はソヴィエト崩壊前には閲覧できなかった公文書や、ショスタコーヴィチ本人による手紙などの信頼できる書簡を元に徹底的に真実を追求したとされており、客観的立場に基づくショスタコーヴィチ研究の素晴らしい成果として評価された。

 ファーイは出版当初からヴォルコフの「証言」の真偽について厳しく追求してきており、本書序文においては「『証言』は本物であるかどうか適切な検討が行われていない」として「貧弱な資料としか言いようがない」と一瞥している。さらにファーイは2002年、ロシア語原稿のフォトコピーを分析した上で「ヴォルコフの『証言』再考」という論文を発表した。ヴォルコフのロシア語原稿は全ての章に「読了。ショスタコーヴィチ」というサインがあり、それはこの原稿が本物であるという事実を裏付けている、とされてきた。逆に言えばこれが唯一の根拠であり、作曲者本人が他界した現在、他に原稿が本物である事を立証できる手がかりはない。

 ファーイは「ショスタコーヴィチの署名があるページのテキストは全て1975年以前に発表された論文から引用されたものである」と主張、つまり既にサインされた書類を使い回した偽装工作であるとして、真贋論争に決着をつけた。ファーイはこの件についてヴォルコフに精細な説明を求めたが、ヴォルコフからは何の声明も発表されなかった。


「やっぱり偽物やったな」

納得したようにタカシ君が深く頷いている。

「どうなんかなぁ・・・」

考え込む僕にタカシ君は不服そうに返してきた。

「何言うてんねん、オマエ。もう議論の余地なしや。これだけ調べ上げた学者がはっきりとウソや言うてるんやんか」

「データの検証なんかして、何の意味があるんだ?」

「アホか!そりゃ検証するわ。世界を揺るがす問題発表や。それが捏造となると罪は重いで」

「罪?何の罪だ?もし、たとえデータの使い回しがあったとして何の問題がある?作曲家の本音を伝えているものなら、それで充分じゃないか?」

「作曲家の本音?もちろん、類稀な天才ではあるやろけど、共産党を盾に都合良く生き抜いてきた策士の弁明にどれだけの価値があんねん?」

「そこが一番重要なところだよ。彼は本来、言葉で音楽を解説するのはナンセンスだと考えていた。しかし、時代は言葉を使わなければ理解できない馬鹿者を量産しているわけだ。そこで、どうしてもバイブルを残す必要があったんだ。この時代を生きるためのね。もちろんそれは音楽に書かれているわけだけれど、彼はそれだけでは自分が死んだ後に誤解され、最後には忘れ去られる事を危惧したんだ」

「それはオマエの憶測や。想像に過ぎん。ショスタコーヴィチを反体制分子に180度切り替える事が冷戦期の西側には都合が良かったんや。それが商用に利用されただけ、CDの売り込みと同じや。ええか、家族でさえこの本は偽物やと言ってんねんぞ」

「何言ってんだよ。たとえ知っていても家族が “これは本物です” なんて言えるわけないじゃないか。抗議しなければ政治犯の家族にされてしまう。抗議するしかない。それに、ショスタコーヴィチ本人は家族に気付かれないよう慎重に事を運んだと思うな」

「それは無理やな。ショスタコーヴィチの病気が進行してから晩年はイリーナ夫人がつきっきりや。ヴォルコフが取材を始めたのは72年頃と書いてある。イリーナ夫人が言う通り面会が2~3回でしかないなら、この本を書くだけの情報量を取材するのは不可能やな」

「イリーナ夫人も含めて、当時ソ連に住んでいた人の証言は信用できない。生命の危険があれば偽証もするだろう。そうやって歴史は繰り返されたんだよ。それに、たぶんショスタコーヴィチはもっと早くからこの仕事に取り掛かっていたんじゃないかな」

「おいおい、それじゃヴォルコフによる序文すら偽証になるやんか」

「うん・・・ふたりは敢えて、この ”証言” が誰の目からも即座に “本物” であるとわかる証拠を残さないようにしたんじゃないかな?サインの真偽はともかく、他にも確証を残す手はあった筈だ。でも、残さなかったんだ」

「何のために?」

「家族を守るため・・・かな?」


第7話に続く