だっこちゃんと宇宙船アポロ(2)


 子供の頃、僕の家の周囲では毎日毎日、「カーン・カーン」と耳をつんざく杭打機の騒音が絶えなかった。今では工法が変わって、ビルを建てるのにあんな音はしない。

 あの音は本当にうるさかった・・・

 あの頃に建てられまくった建物たちは時間の経過と共に劣化が進み、今度は次々と取り壊されている。日本ではあまりダイナマイトを使わないので取り壊しは静かで、ある日気が付いたら居なくなっている。気が付いてもらった建物はまだ幸せであって、多くの場合は町の景色が変わった事で人々に違和感を覚えさせたとしても、それが一体どのような建物であったかなど思い出してもらえない。

 あの頃、一体何をあんなにたくさん建てていたんだろう?

 

 1972年、浦和


 何だか、テレビのニュースが物騒な事件を伝えているようだったが、小学生の僕にはそれがどんな事態であるか、全く理解できていなかった。


「皆さん、これは歴史的大事件です。この光景を目に焼き付けておいて下さい」

担任のK教諭がそう言って、その日の授業を全てテレビの生中継鑑賞に切り替えた。教室の前方窓側の天井からぶら下がっている13インチのブラウン管カラーテレビを40人の児童がじっと見つめている。

「なんか悪い奴が山小屋に立てこもってるらしいよ」

「銃撃戦になるんかな、凄いな~」

子供達はわいわいと口を挟んでいるが、先生はそこまで突っ込んだ解説をするわけでもなく、ただひたすら事の行く末を見つめている。


 世に言う「あさま山荘事件」が勃発したのは1972年2月19日の事だった。連合赤軍のメンバー5人があさま山荘の管理人の妻を人質にして籠城、機動隊が人質救出作戦を行ったが難航、十日後の2月28日に強行突入して救出するに至るまでに3名の犠牲者を出した、壮絶な立て篭り事件だった。この模様はテレビで生中継され、50.8%の視聴率は報道番組としては未だに塗り替えられる事の無い日本記録だそうである。


 何故先生がこの中継を児童に見せようと思ったのかはわからなかった。個人的な興味から自分がテレビの中継を見たかったからだろうか?いや、そうでは無かったと思う。

 この日から30年ばかりが経過したある日、僕は同じクラスでとても仲が良かったマサオ君と新宿で再会した。彼はこの日の事をとてもよく覚えていた。

「先生はさ、まぁ熱心な日教組の教員だったわけね」

マサオ君は僕と違い、とても勉強ができて当時小学生とは思えないほどの博学であった。新宿で彼が解説してくれるまで、僕は全くわかっていなかったのだが、驚く事に彼は8歳の頃に既にそれを理解していたのだ。そして解説は学生運動の流れや新左翼などの関わりなどへと続いたが、そういう話にめっぽう弱い僕は同じ話を何度聞いても右耳から左耳へ通り抜けてしまうのだった。


 ただひとつ言えることは、この時期に日本は大きく変化していたという事だ。小学校では、口を曲げて「まぁしょの~う」と言う、この年に内閣総理大臣になった田中角栄のモノマネが流行した。

沖縄が返還され、ドルは固定相場でなくなる。戦後は終わり、戦争を知らない子供たちによる豊かな日本が幕を上げたのだ。木造校舎から新築の鉄筋コンクリートの校舎に移り、各教室にはカラーテレビが設置された。そして、僕たちがこのテレビから映し出される、最初に見た映像は「あさま山荘事件」の生中継だったわけである。


 マサオ君と僕はよく一緒に遊んだ。僕たちが何をきっかけに仲良くなったのかはよく覚えていない。僕は学校の帰りに毎日のようにマサオ君の家に立ち寄り、一緒にベートーヴェンやシューベルトの交響曲を聞いた。

「ほら!いでボン、ここから展開部だよ。凄いな、たったこれだけのモチーフからこんなに盛り上げるなんて!」

 『いでボン』はマサオ君がつけた僕のアダ名である。どう考えても僕は『ボン』では無いと思っていたが、何故かこのアダ名は今まで僕につけられた中では最も定着したものである。早くから曲をまるまる覚えてしまっていたマサオ君の影響で、僕もいつしか有名な交響曲を覚えるようになっていた。僕たちは荒川に向かって自転車をこぎながら、流行歌ではなく「運命」や「田園」を大きな声で歌っていた。僕の一番のお気に入りはシューベルトの「未完成」で、これは今でも大好きな曲である。


 当時僕たちの間ではプラモデルによる艦隊遊びが流行っていた。

近年も巷では「艦隊これくしょん」なるネット・ゲームが流行しているようだが、40年前の僕たちは制服を着た美少女と全く無縁であったことは言うまでもない。

 その頃、僕たちはプラモデルやモデルガンを買うためにアメ横まで足を伸ばしていた。「アメ横」という呼び方は戦後この通りに飴屋が店を出したのと、米軍払い下げ品店などが並んでアメリカ物資が流通していた事に由来があると聞いたことがある。ミリタリーショップのメッカであった「アメ横」は、子どもに刺激の大きい通りであった。


 いつの時代であっても、男の子は銃や戦車・戦艦や航空機といった「殺人兵器」を一度はカッコイイと思ったり魅せられたりする傾向にあるようだ。これは、元々遺伝子に組み込まれた闘争本能から来ていると言って良いだろう。

 昔のチャンバラ遊びは、相手に切られたら「やられた~」と言って倒れ、何度でも復活できるお約束付きだった。現代ならばゲーム機で殺人をやり、自分が殺された場合でも何回かまでは復帰できるのと同じである。有難いことに、ゲーム・オーバーになってもリセットすれば何度でもやり直せるのだ。これらのゲームではもちろん、殺戮の恐ろしさは全く実感できない。


 僕はべつに、戦闘機や戦闘ロボットを「メカオタク」的に捉える楽しみを否定するつもりは全く無い。それが戦闘用であれ、そうでなかれ、人間が創った機械には必ず芸術的要素が含まれているものである。そういったデザイン的な趣味趣向と、その機械が持っている本来の目的はまた別の次元の話である。

 大人は子どもの成長過程のある時期でこういった殺戮兵器の本当の恐ろしさを教育する責任がある。人間の命はリセットできない、死んだらそれで全てがおしまいなのである。


 僕たちは死が恐ろしいものであるが故それを遠ざけ、非現実的な妄想を描く。

 ここで宗教的な話題に触れるつもりは全く無い。

 人間が救いを求めるのは本能であり、それは無神論者であっても同じである。しかし、「死」というものが本当に恐ろしいからこそ、一度は正面からそれと向き合う必要があるのではなかろうか。


 ドミートリィ・ショスタコーヴィチは、死と正面から向き合い、真撃な創作を行った。もちろん「死」をテーマに取り扱った作品は世の中には数多く存在する。しかし、それら全ての作品が必ずしも「死」を現実的に捉えているとは言えないだろう。芸術で死を表現することは難しい。ある時はキャンパスを黒の絵の具一色で塗り潰す事もあるだろうし、それで足りなければナイフで切り裂く事もあるだろう。それが音楽であってもまた然りである。時には聞くだけで吐き気を催すような音が必要な場面もあるかもしれない。ただ、こういった芸術が実際にどれほど表現者の意図を正確に僕たちの目や耳に届けているのか、本当のところはわからない。

 僕たちは戦争を知らない世代なのだから。


***


 1972年、モスクワ


 ソロモン・ヴォルコフは約束の時間きっかりに彼が勤めている「ソヴィエト音楽」編集部と同じビルの中にあるショスタコーヴィチの部屋のドアを叩いた。

「どうぞ、入りなさい」

 中から声がした。

 早朝、電話を受け取った時からヴォルコフは、その声のトーンから偉大な芸術家の健康状態を察知していた。

「本日は、体調が良いようですね」

ショスタコーヴィチは返事をせず机に向かってしきりに何か書きとめていた。


 人の記憶を掘り起こす事は時に残酷な事である。

 ショスタコーヴィチが後世に記録を残す事に本気になったのはごく最近である。それはとても危険な作業であり、公表を実現させる事は非常に困難である。しかし誰にも語れなかった作曲家の本音を書き留め世に発表する事は自分が芸術に対してできる最大の奉仕であるとヴォルコフは自覚していた。ここに至るには、ショスタコーヴィチの戦死した愛弟子であるフレイシュマンが残した優れたオペラ「ロスチャイルドのヴァイオリン」の初演において作品の価値が正当に評価されなかった事や、その後ヴォルコフが出版したレニングラードの若い作曲家について書かれた本に寄稿したショスタコーヴィチの序文から回想にあたる部分の殆どを当局によって削除されてしまった事などが大きく影響している。

 ショスタコーヴィチは既に自身の命がそんなに長くない事を理解しているようであった。

「時間はあまりない。ここでの事を他の人に気がつかれないように、細心の注意を払わなければならないからね」


 ヴォルコフは近づいて、作曲家のデスクの上をちらりと見た。

そこには楽譜ではなく、ショスタコーヴィチ自身の手による最近のサッカーの勝敗表と予測がぎっしりと書き込まれたレポートがあった。そう、この天才作曲家はその筋で有名なサッカー研究家でもあったのだ。

「 『死 』について・・・そう、チェーホフは本当に素晴らしい事を言っています・・・」

ショスタコーヴィチはいつも、少しゆっくり語り始める。

ヴォルコフはショスタコーヴィチの証言を一語一句聞き逃さずに速記で書き取った。

「死を前にしての恐怖は、おそらくもっとも強い感情でしょう。死の恐怖の影響のもとに、人々が詩や散文、また音楽も創造するというのは皮肉なものです。つまり、人々は生者と自分との結びつきを強め、生者にたいする自分の影響を大きくしようと努力しているのです」ショスタコーヴィチの言葉には一切の淀みが無かった。


 多くの芸術家と同じく、ショスタコーヴィチもまた、死を恐れ、死の恐怖から逃れる事を試みた。しかし、それは容易な事ではなかった。そして彼は、交響曲第14番の作曲に至るまでの過程において、ある領域に到達する。それは日常より死について考え、死を避けられないものとして受け入れ、「死は正真正銘の終わりであり、この先にはなにもない、なにも起こらない、真実を直視しなければならない」という考えに基づくものである。これは、多くの芸術家が死を崇拝する、あるいは賛美する、死とその力を否定する、死が全能である、死からまたはじまる、といった虚構に向かって創作した作品を全て否定するものであった。


 但しこれは、あくまでも人間の自然な「死」について語ったもので、「強制的な死」については、彼は断固抗議している。

「病気で亡くなる、貧困で亡くなる、といった事は『強制的な死』であるし、もっとも悪いのは人間の手による人間の死、つまり戦争、処刑などの殺人行為です」

 スターリンの大粛清で多くの盟友を失い、自身も死刑宣告と同義の糾弾に苦しめられ、その脅威と背中合わせに生きて来た彼にとって、これは当然沸き起こる感情であり、創作テーマの中心となり得る重要なものであった。


 音楽において安上がりなハッピーエンドを採用する事による弊害は、創作過程に於いてだけではなく演奏者の判断ミスによっても起こりうる。たとえば、ショスタコーヴィチは交響曲第5番の最終楽章のムラヴィンスキーの演奏についてこう語った。

「私の音楽の最大の解釈者を自負していた指揮者ムラヴィンスキーが、まるで理解していないのを知って愕然としました。あそこにどんな歓喜があるというのでしょう。これは強制された歓喜です。『 さあ、喜べ、喜べ、それがおまえたちの仕事だ』と強制されているのと同じで、鞭打たれた者は立ちあがり、ふらつく足で行進をはじめ『さあ、喜ぶぞ、喜ぶぞ、それが俺たちの仕事だ』と言っているのですよ。それが聞き取れないなんて、耳なしも同然です」


 ヴォルコフは躊躇する事なく筆を動かし続けた。

曖昧な質問で無駄な時間を浪費する余裕など無い。それに彼はショスタコーヴィチが何を語っているのか、既に充分理解できていた。


***


 終業のチャイムが鳴った。

 授業のあとに毎日行われる「終わりの会」が終わると、みんなはランドセルに教科書を詰めて次々に教室の外へ出て行った。僕は今日一日、誰も座っていなかった机をぼんやり眺めていた。

「先生、僕がT子ちゃんのプリントを家に届けます」

不意にマサオ君の声で我に返った。そうだ、マサオ君も何だか最近T子ちゃんに対する態度がおかしいと思っていたのだ!

「僕が行きます!僕の方が家、近いから」

と、慌てて先生に進言したが、少し出遅れたようだった。

「それなら、二人で行ってもらおうかな」と、先生はニヤニヤしながらプリントを僕たちに渡した。

T子ちゃんは色白で少し顔の堀が深く、日本人ぽくない瞳が魅力的な女の子だった。どちらかと言うとぽっちゃりタイプだったが、「太い」というより骨がしっかりしたイメージで、それもやはり日本人らしくない感じがした。髪の毛は黒かったけれど、もしT子ちゃんの瞳が青かったらロシア人のようだったかも知れない。

 僕たちはT子ちゃんのアパートに着いて、呼び鈴を押した。

お母さんが出てきて、

「まあ、わざわざ届けてくれたのね、ありがとう」と丁寧にお礼を言って、T子ちゃんを呼んでくれた。

「ありがとう」T子ちゃんが玄関まで出てきて言った。

それ以上、何を話したかは覚えていない。何も喋らなかったのかもしれない。

「熱があるのに出てきてもらって、かえって悪かったね・・・」

帰り道に僕がマサオ君に言った。

「いでボン、T子ちゃんが好きなんだな」

「何言ってるんだよ、違うよ」


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