だっこちゃんと宇宙船アポロ(5)
1975年4月30日
サイゴンが陥落、ベトナム戦争は終結した。
僕たちは生まれてからずっと、この戦争のニュースと共に育った。
子どもの頃は「どこか、よその国の出来事」だと思っていたこの戦争に、実は自分も深く関わっていたという事実に気づいたのは大人になってからである。
フランスの植民地であったインドシナ全域、すなわちベトナム、カンボジア、ラオスは第二次世界大戦中に日本軍のクーデターによってフランス統治政府が倒されたが、その後無条件降伏した日本軍の武装解除のために進駐した連合軍が分割統制を敷き、再び植民地へ逆戻りしようとしていた。
ベトナム人による統一国家を目指したベトナム労働党、すなわちスターリンを「世界革命の総司令官」、毛沢東を「アジア革命の総司令官」としたホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)と、中国に始まるアジア・ドミノ倒し共産化を何としても阻止したいアメリカの意を受けて南に樹立されたベトナム共和国(南ベトナム)のサイゴン政権の衝突は、避けようのない筋書きとなっていった。
冷戦構造の国際社会が朝鮮、ベルリンと同じ解決策をインドシナ半島に求めた結果生まれたその混乱は、その後アメリカと南ベトナム内でサイゴン政権を打倒するために立ち上がった「南ベトナム解放民族戦線」通称 “ベトコン” を支援する北ベトナムの戦争へと発展していった。
資本帝国アメリカは、彼ら曰く ”ハノイの手先” であるベトコンの本格的な掃討に乗り出したが、その後何年にもおよぶデルタ地帯の農村で繰り広げられたゲリラ戦で文字通り泥沼の不毛な戦いの挙句、数百万の犠牲に何の意義も見い出せないまま撤退を余儀なくされた。
かつて冷戦期を「長い平和」と言った研究家が居た。
アメリカの強便な軍事介入の背景にはアジア地域に於ける日本や韓国との強力なタッグが必要不可欠だった。
僕たちが地球上で他に類を見ない高レベルの消費生活を肥に、経済の循環から生み出された利益のたらい回しによって戦争を幇助している事に見て見ぬふりをし、自らの手を汚さずに近隣諸国の代替戦争によって「長い平和」を豊かに過ごした事に疑いの余地はない。
***
1975年、福山
「なんしょんなら?」
「え?」
「おみゃー、転校生ぢゃろが?」
「あ、あぁ、そうだよ」
「まゃ、どけぇおったんにゃ?」
「え、なに?」
「おーい!コイツ、日本語がわかりゃせんのじゃそうな」
同級生たちが、からかって僕のズボンを引っ張った。
「お、おい!よせよ!よせってば!やめろよ!」
僕が声をあげると一瞬、教室がシ~ンと静まり返った。
次にどっと笑い声があがった。
それから暫くの間、僕はクラスメイトから「よせよ~」「やめろよ~」と呼ばれる羽目になった。
転校して一番困ったのは言葉の壁だったが、文化、環境、習慣、何一つとっても浦和と180度違う別世界であった福山に、小学生の僕は困惑し続けた。
窓から見える景色も今までとは全く違う。
「教室から山が見えるんだね!」と新鮮に喜ぶ僕に対して、クラスメイトは無反応だった。そこに育った者には珍しくも何ともないのだから当然である。横須賀で決意した心機一転・自分改造計画は早くも頓挫しそうであった。
(浦和に戻りたい・・・今すぐ!)
僕の最初の一年は、ほぼそれだけで終わった。
だが、この危機的状況の中で、僕は恩師を通じて運命的な出会いを果たした。
その恩師とは音楽の凡平(ボンペイ)先生である。
これは彼のファースト・ネーム(本名)だったが、先生は名前とは逆にとても非凡な教育者だった。
ボンペイ先生は合唱団を編成するため高学年全員に選抜テストを実施した。
曲は「モルダウ」だった。
試験はひとりずつ先生の前で歌うオーディション形式で、多くの児童が歌い出して暫くすると「席に戻って」と不合格を言い渡された。
特に男子は酷いもので、ほぼ壊滅状態が続いていた。
やがて僕の番がきた。
歌い出すと、先生は僕の目をまっすぐに見た。
「よし」
ほんの数小節で、すぐに止められてしまった。
(やっぱり不合格か・・・)
しかし先生は素っ気なく言った。
「合格だ、次!」
・・・嬉しかった。
実際にはそんなに大した事ではない。男子はみなダミ声だったので、先生は少しでもマシなのが居ないかと思っていただけなのだ。でも、僕は初めて音楽で認められたような気持ちになり、ボンペイ先生を慕うようになった。
ボンペイ先生は僕が今まで見てきた音楽の教師とは全く違っていて、実に楽しく、それでいてとても厳しかった。例えば「プロのオーケストラでは初見で演奏できなければならない。楽譜は高価なので家に持って帰ることは禁じられているのだ」といった薀蓄を話てくれたり、シューベルトが如何に天才であったかを実際に自分で演じて見せたりしてくれた。当然、授業中にお喋りをするなど許されず常に空気が張り詰めていて、「ハリー・ポッター」に出てくるセブルス・スネイプ先生の授業のようだった。身だしなみには全く気を遣わない人で、いつも靴下にはポッカリ穴が空いていた。そして言い訳のように「音楽家は昔から貧乏なものなのだ」と言っていた。
先生は合唱のほかにも器楽合奏クラブの監督もしていた。
喜び勇んで入部した僕は、そこで生まれて初めて「コントラバス」という楽器と対面したのである。
ボンペイ先生にはハーフポジションのソ、ラ、シ、ド、レの5つの音を教えてもらっただけだったが、この体験は本当に素晴らしく、子供の頃からオーケストラというものに特別な憧れがあった僕はとても興奮した。
しかし、まだ子どもだった僕はここで大失態を犯してしまう。
ある日、合奏が終わって後片付けをしている時の事である。
何と不謹慎な事であろう、友人と楽器をオモチャにして遊んでいた僕は、横に寝かせたコントラバスのネックを持って両足で跨っているところを教育実習の先生に見つかってしまったのである。
当然、僕はボンペイ先生に呼び出された。
先生は厳しい口調で僕に言った。
「楽器に謝りなさい!」
「すみませんでした」
小さな声で謝る僕とは逆に先生は大きな声で言った。
「土下座して謝るんだ!」
「申し訳ありませんでした」
土下座でコントラバスに謝る僕の目から涙がポタポタと落ちた。
つまり、これが僕とこの楽器の出会いである。
当時10歳。僕がコントラバス奏者になるための本格的な修行を始めるのは、それから実に10年後の事である。よくもまあ、そんなに回り道ができたものだ。しかし僕を音楽の道へ誘ってくれたのはボンペイ先生であったことには間違いない。
***
1975年、モスクワ
8月9日、ドミトリー・ショスタコーヴィチはこの世を去った。
20世紀最大にして音楽史上最後の交響曲作家。
享年69歳、肺癌だった。
ショスタコーヴィチはその前年である1974年11月13日、ヴォルコフを自宅に呼んでいる。
「先生はご自身の墓碑として弦楽四重奏曲第8番を作曲されたのですよね?」
「そう・・・私の作品は、言わば全てが墓碑です。私の友人たち・・・そう、メイエルホリドやトゥハチェフスキーをはじめ、この国では多くの人々がどこで死んでどこに埋められているのかわからない。だから私は自分の音楽を彼ら全員に捧げているのです。本当は一人一人に作品を書きたいのですが、それは無理ですからね。しかし、この曲に関しては私自身のためだけに書いたのは確かです」
これが最後の面会になることをヴォルコフは承知していた。それでもまだ、しばらくの間この偉大な作曲家と一緒に居たいという気持ちを抑えきれずに居た。
「先生、先生はまだまだお元気でいらっしゃる」
「いえ、残念ですがそう長くはありません。あとはよろしく頼みます」
二人の間にしばらくの沈黙があった。
「原稿はいま、どこにありますか?」
ショスタコーヴィチがおもむろに尋ねた。
「日本にあります。約束通りです」
「それで結構です」
「この回想録は先生のお亡くなりになった後に西側で出版する段取りになっています」
「ありがとう」
ショスタコーヴィチはまたしばらく沈黙したあと、ゆっくり話し始めた。
「もう何度もお話しましたが、その原稿の内容は、つまり私の証言は、我が国の事情で考えて大変危険なものです。もう一度、約束してください。たとえ将来、このソヴィエト連邦がひっくり返るような事があったとしても、あなたは生涯沈黙を守るということを。決して表に出て争ってはいけません。敵は必ずあらゆる手を使ってあなたを公の場に引きずり出そうとするでしょう。しかし、それに乗ってはいけません」
「もしも、真実が捻じ曲げられようとしてもでしょうか?」
「真実は永遠です。真贋論争は専門家と呼ばれる先生方に任せておけばよいのです。判断は歴史が下すでしょう。それよりも、あなたの一挙一動によってあなただけではない、あなたの家族、このプロジェクトを影で支えて下さった方々、それに・・・残された私の家族までも危険に晒されるということを、どうか忘れないでください」
「もちろんです」
ヴォルコフは自信を持って答えているようだったが、ショスタコーヴィチは思っていた。(この若者はまだ、この国の本当の恐ろしさを知らないのだ)
「先生、一つだけ私には不思議に思えてならない事があるのです」
「何でしょうか?」
「初めてお会いした時から、先生はまるで私と出会うのを待っていたかのような、いえ、以前から私を知っていたかのように接して下さいました」
「そうでしたか?」
「ええ、それに、私がこの仕事に取り掛かってからも、まるで次に私がやろうとしている事を知っていたかのように、いつも先回りして準備しておられた。もちろん、だからこそ私はこうやって限られた時間の中で無事に仕事を終える事ができたのですが・・・」
「私のやって欲しい事と、あなたのやりたい事が一致していたのですね」
「いえ、単純にそれだけとは思えません」
「何が言いたいのですか?」
「先生は・・・うまく言えませんが、いつも先の事を正確に読んでらっしゃる・・・」
「まるで未来が見えるように?」
不意に言葉を遮った作曲家に、ヴォルコフは驚いて答えた。
「・・・そうです」
「はっはっは!」
一瞬の間をおいてショスタコーヴィチは大きな声をあげて笑った。
そして昔を思い出すような遠い目をした。
「わたしは9歳の時に初めて母からピアノを教わった」
「ええ、存じております」
「常識的に考えて、それはかなり遅いと言われます。しかし、初めてピアノを触った日に、私はハイドンの交響曲のある楽章を一音も間違えずに弾きました」
「それは驚くべきことです」
「そう、いつも他人からはそう言われます。しかし驚くも何も、わたしは、ただ普通にピアノを弾いただけなのです」
「ええ」
「そういう事です」
そう言ってショスタコーヴィチは以前二人で撮った写真にこう書き込んだ。
「親愛なるソロモン・モイセイエヴィチ・ヴォルコフへ。美しい思い出に。D・ショスタコーヴィチ1974.11.13
帰り際にもう一度ショスタコーヴィチはヴォルコフを呼び止めた。
「ちょっと待ちなさい!もう一度、その写真を」
そして更に、
「グラズノフ、ゾーシチェンコ、メイエルホリドについて語った思い出に。D・S」
と書き加えた。
「これはいつか、きっと役に立つでしょう」
***
1980年、福山
“夜の次には必ず朝が来る”
彼にも言いたかった。
自分でつくっていくはずのすばらしい明日を見ず、夜だけ見て逝ってしまった友達に。
これはまだ小学生だった頃に僕と恋仲だった「イモちゃん」が、中学の卒業文集に寄せた一節である。
三年生のある寒い冬の朝、僕とイモちゃんのクラスメイトであったミツヒロは突然、自ら逝ってしまった。前日まで皆で仲良く一緒に “馬跳び” をして遊んでいたが、クラスの友人も、担任も、家族ですらその兆候を見抜けなかった。ミツヒロは成績も人並みで、特に勉強で悩んでいる様子もなく、決していじめられるタイプでもなかった。
何かに悩んでいる様子など微塵も感じさせない、明るい男子だった。
兆候、といえば前日にこんな事があった。
彼はそれを決行する前日、クラスメイトたちに謎の質問を投げかけた。
「なあ、家庭に来てる電気で死ねるんかな?」
朗らかなミツヒロの質問である。
クラスメイト達は特に何を疑う事もなく一般論として答えた。
「そりゃ左手にプラス、右手にマイナスを握れば、間違いなく死ぬわ」
「そうなんか」
陰鬱な感じはまったくなく、誰もがいつもの雑談であると思っていた。
彼はその日、家に帰って電気コードを分解した。
そして左手にプラス、右手にマイナスのコードをつなぎ、タイマーをセットして布団に入った。
翌未明タイマーは作動し、100ボルトの電流はミツヒロの心臓をぶち抜いた。
実際にセットしてからタイマーが作動するまでの間、ミツヒロは一体何を思っていたのであろう?もしもその秒読み時間を普段通りに過ごせたのだとしたら、彼の神経はまともだったとは言えない。
スイッチが入った最期の瞬間、彼は予定通りの運びに納得して逝ったのか、それとも何か「忘れ物」を思い出して後悔しながら逝ったのか?もはや逝ってしまった者に尋ねる事はできない。
後日、クラスの皆で葬式に行った。
ミツヒロは棺桶に入っていた。
近寄って顔を見た。
青い顔をしていた。
確かに、ミツヒロの顔ではあったが、何か僕が知っている彼の表情とは違うように思えた。
死んでいるのだから当たり前かもしれない。
そこに横たわっていたのは「ミツヒロ」ではなく、表情を失ったミツヒロの抜け殻であった。
僕たちは呆然と彼を見送る事しかできなかった。
その時、多くのクラスメイトが同時に気がついた。
僕たちは「友達」だと思っていたミツヒロの一体何を知っていたというのだろうか?
彼が何に絶望したのか、何を求めたのかは永遠にわからない。
***
1980年、ニューヨーク
「・・・・ああ、それは何よりです。これでドイツ語版に続いて日本語版も出版が実現したわけですね。ええ、既にその筋の御用達学者が動き始めています。いろんな意味で衝撃的な内容ですからね、そりゃあ、当局は黙っていないでしょう。
いろいろとご尽力頂きありがとうございました。はい?・・・・あ・・・はあ、申し訳ございません、最初にもお伝えしましたが、このプロジェクトに関わった者についての情報は一切お話することができません。状況をお察しください・・・はい、はい。すみません、失礼します」
電話を切ったヴォルコフは、ほっと溜息をついた。
ショスタコーヴィチの死後、ヴォルコフは1976年にアメリカに亡命し、1979年に彼の編集による「ショスタコーヴィチの証言」は英語版およびドイツ語版が、1980年に日本語版が出版された。
西側では即座にショスタコーヴィチ・ルネッサンスが巻き起こった
共産党のプロパガンダは一夜にして反体制の勇者となった。
予想された通り、発表と同時にソ連当局は本書を「偽書である」と断定し、厳しい批判を行った。その後、学者らによる検証がはじまり、あらゆる角度から本書の真贋についての論争が繰り広げられた。
生前、ショスタコーヴィチと親交のあった6人の親しい作曲家の友人たちは署名つきで非難声明を発表、またイリーナ未亡人は本書を「受け入れられない」とした。
一方、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ルドルフ・バルシャイ、キリル・コンドラシン、ギドン・クレーメル、エミール・ギレリス、スヴャトスラフ・リヒテルなど、ソ連から西側へ亡命した多くの演奏家や著名な東側の音楽家が本書を支持した。
***
中学で吹奏楽とギターを始めた僕が、次第にブラスより少ない人数で高いテンションが得られるバンドの方にのめり込んでいったのは、必ずしも入学した高校の吹奏楽部が部員5名で廃部寸前の状態であったことだけが理由ではない。僕の人生には必ず要所で僕に大きく影響を与える人物に出会うストーリーが用意されているようだ。
僕がアキロヴィチと出会ったのは高1の時、僕の主催によるジョイント・ライブの準備段階での事だった。
最初に会った瞬間から、僕はこの男の才能を確信した。
以前からバンド仲間で噂になっていた男だったが、実際に演奏を聞いてその噂がまったく大袈裟でない事を理解した。
僕は「一緒にユニットを組もう!」と、彼を誘った。
それまでずっとソロで活動していた彼はとても喜んでくれた。
アキロヴィチは聴く音楽も幅が広く、もちろんクラシックにも通じていた。
僕たちは遠く広島市内まで演奏会を聴きに出かけた。
生まれて初めて生で聞いたオーケストラはアシュケナージが指揮するフィルハーモニア管弦楽団で、「ドン・ファン」とモーツァルトのピアノ協奏曲、「田園」というプログラムだった。もちろんモーツァルトはアシュケナージの弾き振りだ。
今でもあの時に聴いたR・シュトラウスの爆発するようなエネルギーは僕とアキロヴィチの語り草になっている。