だっこちゃんと宇宙船アポロ(3)


「早くしなさい!」

母は僕を急かした。

「何でこんなに早くからスーパーに行くんだよ」

休みだというのに叩き起こされて僕は不機嫌である。

「早く並ばなきゃ無くなるのよ、トイレットペーパーが」

「え?トイレットペーパー買うためにわざわざ行くの?」

スーパーに到着すると開店前だというのに既に長蛇の列ができていて店員がメガホンで声を荒げている。

「トイレットペーパーをお求めのお客様はこちらに一列になってお並びください。

なお、本日はお一人様ひとつ!ひとつ限りとさせて頂きます」

「いい?あなたもひとつ持って別のレジに行くのよ!」

(何でトイレットペーパーでそこまでしなくちゃならないんだよ)

必死の母を不思議に思う僕。


 1973年10月に起こったトイレットペーパー騒動。

第四次中東戦争勃発を受けてペルシャ湾岸6ヶ国が原油公示価格を70%引き上げた、いわゆる「オイルショック」に端を発した騒ぎだ。ところがこの騒動は皆が一斉に買い占めに走ったために一時的に小売店や卸業者のストックが無くなっただけであって、実際には紙の供給は安定していたというのだから何とも馬鹿げた話だ。同じような騒ぎが洗剤でも起こった。

僕はこの一件を「踊る消費者」時代の幕開けと位置付けている。

人間界における横並びの連鎖反応の速度は恐ろしい。


 高度経済成長は物凄いスピードで僕たちの生活を変貌させた。

新しい物がどんどん家庭に入り込んできた。

カセット・テープレコーダーもそのひとつ。自分の声を録音するという画期的な道具に僕たちはどれほど新鮮に驚いた事か。子供たちは機械に向かって「バ~カ!」と録音した音声を使い、合理的に大人を嘲笑する遊びを覚えた。

 

 食生活も急変した。焼き魚と味噌汁だった夕ご飯がハンバーグやカレーライス、スパゲティに取って代わりはじめたのもこの頃だった。

我が家に初めて「スパゲティ・ミートソース」なる物が登場した日の事を僕は今でも忘れない。聞いたこともないカタカナのメニュー、それはどこかで情報を仕入れてきた姉のリクエストであったと記憶している。とにかく、完成品を見た僕の最初の言葉は、「ソースかかってないじゃん」である。

「猫の肉を使っている」とデマが飛んだマクドナルドが上陸第1号店を銀座にオープンしたのは日清のカップヌードルの発売と同じ1971年。因みにセブンイレブン、ローソン、ファミリーマートをはじめとする大手コンビ二も70年~75年のあいだに次々と1号店を開店させていった。

これを境に日本人の食生活は平均寿命に反比例して安易で粗末になっていく。

 

 僕の両親はどちらも広島県の福山市出身である。父は農家の長男であったが高校を卒業後地元の社会保険事務所に勤め、のちに試験を経て厚生省の官僚となった。祖父は根っからの肉体労働者思考であったため父の役所勤めに懸念を示したが、農業の先行きに不安を感じていた父は祖父の反対を押し切って上京した。実際、日本の農業政策は行き詰まったし、その後の経済成長に反しての第一次産業衰退を考えると父の選択は結果として堅実であったと言える。

田中角栄の列島改造論は失敗に終わり地方は衰退した。それでも経済は果てしなく伸び続けると人々は信じ、都市にそのエネルギーは集中した。

その結果掃き溜めとなった新宿などの大繁華街では連日大人たちがストレスを嘔吐し、若者たちは原宿などに集い、踊り、バイクを走らせ自失していった。

地方にカネをもたらす最終兵器・電源三法が成立し、原子力発電所を作ると交付金が出る仕組みができたのは1974年。人々はエネルギーとカネを消費し、山を削り、海を埋め立て、ビルを建て、その代償として少しづつ理性を失いつつあった。


***


1972年、モスクワ


 ヴォルコフはこれまでにまとめた部分の原稿をショスタコーヴィチに手渡した。それは、相当に分厚い書類であったが、ショスタコーヴィチはパラパラと目を通しながら話を続けた。

ショスタコーヴィチは子どもの相手をしながら作曲ができるほどの驚異的な天才であった。もちろん、彼の創作にはピアノすら必要なかった。


「メイエルホリドを破滅に追いやったのは、結局のところ夫人のライフだったと私は確信しています」

フセヴォロド・メイエルホリドは現代演劇の第一人者にして20世紀のロシア・ソ連を代表する名優・演出家である。その挑発的な演劇革新運動は全体主義を推し進めるスターリンによって形式主義のレッテルを貼られ、結果として彼は大粛清の犠牲者となった。

「夫人は大変美しい方だったと伺っています」

「そう、そしてとても重要なのは彼女自身それをよく知っていたことですね」

「あなたは夫人に好かれていなかったのですか?」

「それはもう、酷いものでしたよ」

 

 既に世界に名声の轟いていたメイエルホリドは、まだ若かったショスタコーヴィチをメイエルホリド劇場のピアニストとして雇った。ショスタコーヴィチはメイエルホリドのアパートに住み込んだが、当時人気女優だった夫人のジナイーダ・ライフは明らかにこの若僧を嫌悪していた。

「あなたは練習ピアニストとしてメイエルホリド劇場の稽古に立ち会った他、彼の上演したマヤコフスキーの『南京虫』やグリゴエードフの『知恵の悲しみ』などの音楽を担当していらっしゃいますね。あなたはメイエルホリドからどんな影響を受けましたか?」

「メイエルホリドの元で、私は創作を続けていく上での様々な重要な事を学びました。たとえば、どんな仕事でも常に新しい技術上の課題を設定しなければならない事、常に新しい作品を準備しなければならない事などです」

「メイエルホリドは常に革新的な運動を続けていましたものね」

「そう、それから彼のおかげで私は自分の作品への非難に平静に対処できるようになりました」

 一瞬、ヴォルコフは手を止めてショスタコーヴィチの方を見た。この作曲家は生涯 ”非難” と共に歩んできたのである。

「もしも、作品が誰にも気に入られたとしたら、それは決定的に失敗したと考えるべきである。逆に誰からも罵られたとしたら、そこには何かしら価値のあるものが存在している。真の成功というのは、その作品が議論の対象となり、喝采と非難が同じほど存在したときに成立する、というのが彼の持論です」

「なるほど、議論の対象となる芸術ほど存在意義がある、という訳ですね」

「メイエルホリドは芸術家として世界のトップクラスでした。たとえほんのわずかでも、彼と共に過ごすと自分を豊かにすることができる、そういう人物でした。当時私は自分が作曲家としてやっていけるかどうか、疑念を抱いていました。しかし、彼の存在によって私は自分の書いたものに確信を持てるようになりましたし、混乱状態に陥る事も少なくなりました」


 しかし、メイエルホリド劇場は閉鎖される。

 直前に共産党指導部が芝居を見にやってきた。彼らが芝居の途中で席を立った事はそのまま、メイエルホリドの破滅を意味していた。メイエルホリドは慌てて劇場の外まで追って行ったが、彼らは自動車を発進させたところだった。

「お願いです!待ってください!」

既に60歳を越えていたメイエルホリドは声をふりしぼり、力の限り走った。しかし車は見えなくなった。

「待ってください・・・」

ついに力尽き、転倒したメイエルホリドはその場で泣き崩れた。


「彼の最後の仕事はスタニスラフスキー・オペラ劇場でのプロコフィエフのオペラ『セミョン・コトコ』 でしたね」

平静を装ってヴォルコフが尋ねた。

「正確に言うとそれは最後までやりとげられなかったわけです。彼はリハーサルの途中で逮捕されましたから。それでも何事も無かったかのように、そのままリハは続けられた。誰も逮捕された演出家の名前を口にしなかった・・・いえ、口にできなかった。

誰もが心の中で祈っていたのです。(どうか、次が自分の番でありませんように)と」


「彼はあなたと『ハムレット』のオペラを制作したかったのではありませんか?」

「それは多分あの時代では上演不可能だったでしょう。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』によって私は ”音楽ならぬ混沌楽” と形式主義者の烙印を押されていましたからね」

「交響曲第4番と同じ運命になったかもしれませんね」

「それでも、作曲するべきだったかも知れません。交響曲第4番はこうして実際に演奏できる日がやってきたのですから」

そう言って、ショスタコーヴィチは読み終えた原稿にサインをした。

メイエルホリドは投獄されたのち、拷問を受けて1940年2月1日に死刑判決を受け、翌日に銃殺されたと考えられている。


 メイエルホリドは妻のライフを溺愛していた。

1939年6月20日にメイエルホリドが逮捕されてほどなく、ライフの元にスターリンの刺客が送られる。彼女の身体には17箇所にナイフの跡があり、目も突き刺されていた。宝石などの装飾品も残らず持ち去られたというのだから普通なら強盗殺人としか言いようがない。しかしその夜、近所中にライフの悲鳴が轟いていたにもかかわらず、誰ひとり近づく者は居なかった。みな、関わることを恐れたのである。

スターリンの大粛清の嵐は今まさに全ソ連にその猛威をふるっていた。


***


1938年、樺太


「ここが国境だ」馬橇の御者が言うや否や、嘉子と良吉は手を取り合って深い雪の中を全力で駆け出した。無我夢中だった。スキーで付き添っていた国境警備隊員はじき馬橇に追いつくだろう。橇には隊員の銃と無線機が載せてある。とにかく、早く国境を越えなければならない。後ろで何か叫び声が聞こえたような気がした。警備隊員が追いついたならきっと発砲してくるに違いない。二人は振り向かず雪の中をひたすら漕いだ。手提げカバンも投げ捨て、暑くなってセーターも投げ捨てたその時、良吉が声をあげた。

「国境を越えたぞ!」

それと同時に若い二人のソ連兵が嘉子と良吉の身柄を確保した。

杉本良吉はプロレタリア演劇の演出家で、共産党員であるために一度逮捕され、執行猶予中の身である。当時日本は戦時下の言論統制から厳しい思想弾圧が行われていた。小林多喜二の獄中拷問死は記憶に新しい。自分の思想を貫くだけでどんな非業が待ち受けているかわからない時代である。軍事国家大日本帝國にあってプロレタリアートはもはや風前の灯火であった。更に良吉を恐怖に陥れたのは、いつやってくるかわからない赤紙だった。

オランダ人とのクォーターであった女優・岡田嘉子は日本中にその顔を知らぬ者は居ないトップ映画スターである。

良吉には病気の妻・智恵子が、嘉子にも既に過去にも駆け落ちして結婚した美男俳優の夫・良一が居たが、二人の許されぬ恋は樺太の雪をも溶かすかと思われるほど熱烈であった。

「ソ連に行こう」良吉は嘉子と駆け落ちをする覚悟を決めた。

(演劇の最高峰、メイエルホリドの元へ!)


 二人は日露戦争の結果ポーツマス条約によって北緯50度線上で割譲され当時日本領だった樺太の国境沿いの街、敷香(ポロナイスク)まで行き、「国境警備隊の慰問」という理由で国境に近づき、隙を突いて越境した。

「国境の向こうには人類の理想とする自由と平等の社会主義国があるんだ!」良吉の夢は膨らんだ。しかもソビエトといえば演劇大国、メイエルホリドは良吉の崇拝する劇聖であった。

既にメイエルホリドの元には良吉に影響を与えた2人の日本人が居るはずだった。「モスクワに着いたら、真っ先に佐野さんと土方さんを訪ねよう」

佐野碵と土方与志は日本プロレタリア演劇界の先駆者であった。


 しかし、当時ソ連は日本を潜在的脅威と見ており、この国からの不法入国者には厳しい目が向けられた。二人は越境3日後にスパイ容疑で逮捕され、以後お互いに二度と顔を合わす事は許されなかった。佐野も土方もスパイ容疑で国外退去させられた直後で既にソ連には居なかった。

更に当時ソ連でスターリンによる大粛清が吹き荒れていることを良吉は全く知らなかった。

良吉は「メイエルホリドに会うために、純粋に演劇の勉強のためにソ連へ来たのだ」と必死に釈明したが聞き入れられず、二人には「メイエルホリドのスパイ行為を幇助した」という嫌疑がかけられた。

もちろん、メイエルホリドにスパイ行為の事実など無かった。スターリンがメイエルホリド粛清のためにこじつけたのである。

ソ連当局による厳しい拷問・脅迫に耐えられず、二人は虚偽の自白をする。

1939年(昭和14年)9月27日、二人の裁判がモスクワで行われ、良吉は死刑、嘉子は自由剥奪10年となった。法廷で良吉は一転、冤罪を主張したが認められず、メイエルホリドより一足早く銃殺刑に処された。


 良吉は結局、日本にとどまっていてもソ連に渡っても同じ運命にあったのかも知れない。時代が違い、国が違えば命を落とすことも無かっただろう。

命をかけてまでも貫き通す思想とは一体どのようなものだろうか?

戦争も弾圧もない時代に生きていながら、自分の思想すら持っているのかどうかわからない僕とはいったい何者なんだろう?


***


 マサオ君が珍しいラジオを見せてくれた。

「これがクーガだよ」

「なんか、面白い形だね」

「BCL専用ラジオなんだ」

「なんだい?BCLって」

「短波放送を聞く趣味の事だよ。短波は普通のラジオ放送と違って世界中の放送を聞くことができるんだ」

「でもさぁ、聞けても外国語じゃ、何を喋っているのかわからないよ」

「大丈夫さ、日本向けに日本語で放送してる局もあるんだ。モスクワ放送なんかはよく聞こえるよ」

僕たちは実際にモスクワ放送を受信して聞いてみた。

「日本のみなさん、こんにちは。こちらはモスクワ放送です」

ラジオから明瞭な女性アナウンサーの声が聞こえてきた。


 

 樺太から越境して逮捕され、凄惨な拘留生活を経た岡田嘉子はモスクワ放送局で日本語放送のアナウンサーを務めた。その後1972年に日本へ帰国を果たし、一時はテレビや映画にも出演したが、ソ連でペレストロイカが始まると「今はもう自分はソ連人である」として再びソ連に戻り、体制崩壊後の1992年にモスクワでその生涯を閉じた。

 

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